引きこもり40代主婦が「ハレとケ」で「ケガレ」なしハッピーライフを実現するまで

巣ごもるきもち

皆さまはご存じでしょうか?

非日常を表す「ハレ」と、日常を表す「ケ」という言葉を。

私たちの暮らしは、日常と非日常、この「ハレとケ」の連続によってできているともいえますよね。

ですから、この「ハレとケ」について知ることは、私たちがより幸せに暮らすために大いに役立ってくれるはず。



「ハレとケ」とは、民俗学者の柳田國男氏(明治8年〜昭和37年)によって提唱された日本人の伝統的な世界観を表す言葉。

民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、「ハレ」は儀礼や祭り、年中行事などの「非日常」を表し、「ケ」は普段の生活である「日常」を表し、「ハレ」の場においては、衣食住や振舞い、言葉遣いなどは、「ケ」とは画然と区別されます。(Wikipediaを参照)

そのような伝統は、現在の日本に暮らす私たちの心にも十分に染みついていますよね。



そんな特別で格別な機会である「ハレ」ですが、テレビやSNSを通して垣間見られる世間の人びとの日常は、「ハレ」の日(非日常)のオンパレードです。

昔と比べ「ハレ」の頻度は格段に増え、人々の生活はこの「ハレとケ」のメリハリを失くしている―――そんな印象を受けます。

そういう私も、以前は違った方向ではありますが、やはりこのバランスを欠いていたのです。

詳しくは後ほどお話ししますね。


ということで、この記事では私の暮らしにおける「ハレとケ」についての考察を述べさせていただきながら、皆さまにも役立つ「ハレとケ」の解説や心得的なお話をさせていただこうと思います。

「ハレとケ」と「ケガレ」

一般的にもよく使われる「晴れの舞台」「晴れ着」などの「晴れ」、これが「ハレ」の語源です。
晴れの舞台とは、生涯に一度ほどの大事な場面のことをいいます。
晴れ着とは、折り目、節目の儀礼で着用する衣服のことをいいますね。



一方、普段着は「褻着(ケギ)」と言います。

聞き慣れない言葉ですよね。
というのも、この「ケ着」という言葉が使われていたのは江戸時代のことであって、明治以降からはこの言葉は使われなくなったといいます。



また、「ハレ」の日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されました。

当時の庶民にとっては、肉や魚などは大そうなご馳走であり、日常的に飲食されるものではなかったそうです。

「ケ」の日である日常で食べられていたものといえば、雑穀と汁物と漬物だったといいます。

器だってもちろん、ハレの日に使うものと日常使いでは区別されていました。



この時代の人々の「ハレ」と「ケ」は、しっかりとした線引きがされた、全くの別物だったことが分かります。

ですが、時代とともにこの「ハレ」と「ケ」の区別は曖昧なものになっていきます。

例えば、「ハレ」の儀礼時にだけ行っていた特別な飲食が日常的に行われるなどです。(Wikipediaを参照)



そのような「ハレとケ」に対し、もう一つ考慮したい概念があります。
それが、「ケガレ」です。


「ケ(日常)」を困難にさせる「ケガレ」とは?

「ケガレ」とは、日常生活を営むための「ケ」のエネルギーが枯渇した「ケ(気)枯れ」の状態をいいます。

そんな「ケガレ」は、「ハレ」の祭事を通じて回復するといいます。



ですが、「ケガレ」についてここで申し上げていることは、一つの説であるということを付け加えておかなくてはなりません。

「ハレとケ」と「ケガレ」については、研究者によって違った説がいくつかあるそうで、その議論の隔たりは現在も解消されておらず、統一的な定義を打ち出せずにいるといいます。(Wikipediaを参照)


「ハレ」が「ケガレ」を回復!?

ハッキリとした定義がされていないままの「ハレとケ」に対する「ケガレ」という概念ですが、「ケガレ」と聞いて人々の頭に浮かんでくるイメージは共通しているのではないでしょうか。
「ケガレ」とは不浄なものであると、皆さん思っていませんか?

ですが、「ケ」は「気」であり、「霊的生命力」であり、もともと「ケ枯れ」には不浄観は伴っていなかったという説もあります。(Wikipediaを参照)



ところで、ここでいう「ケガレ」と「穢れ」は同じものなのでしょうか。
そうとも言えなそうですが、そうではないとも言えなそうです。



「穢れ」は、「汚れ」を意味しています。
「不浄(=汚れ)」とは清らかでないことであり、心身の汚れているさまを意味していますが、単なる衛生観念ではなく、神聖観念によるものです。不浄とは – コトバンク (kotobank.jp)を参照)

汚れた心は、邪な考え、気の迷いを人に起こさせることがあるでしょうが、そもそもなぜ心は汚れてしまったのでしょう。

もしかしたら、「ケ枯れ」が原因だったのではないのでしょうか。

また、自らを破壊的な方向に向かわせてしまうような発想なども、気が枯れた状態、生命力の枯れた状態にあるときに人が抱いてしまいがちなのでしょうが、このような自己破壊的な衝動や邪念をもって事を起こすことを人は、「魔が差す」なんて言います。

この「魔」を入りこませてしまうような状態こそ、「ケ枯れ」なのではないでしょうか。

とにかく、「ケ枯れ」とは、生命力が枯れた状態なのですから、様々なネガティビティ、清らかでないものに遭遇しやすくなることでしょう。



そんな「ケ枯れ」の状態に陥ってしまうのは、ごめんですよね。
そこで思い出して欲しいことがあります。
「ケガレ」を回復するのは「ハレ」である―――という説があるということを。



華やいだ雰囲気、晴れ晴れとした人々、活気に満ちた場、それらの「ハレ」に触れることで、元気が出てくる。

「気」が満ちる。

「魔」を吹き飛ばす。


「ハレ」が人を元気にする増強剤になっているという考えは、皆さんも概ね同意されることと思いますがいかがでしょう。

私たちは「ハレ」によって「ケ(気)」を満たすことで、「ケ(日常)」を清らかに過ごすことができるのかもしれません。


「ハレとケ」のバランス

「ハレ」が「ケ」を満たし、「ケガレ」を回復する。

この考えをベースに自分自身の暮らしの中の「ハレとケ」のバランスを図ってみようと思ったら、多少なりとも今の暮らしを変化させざるを得ない、そのような方も少なくはないと思います。

そう思うのは、私自身に「ケ」が十分満ちていなかったからなのですが、それだけでなく、現代人の多くが、この「ハレとケ」のバランスを欠いた状態にある、そのように見受けられるからです。


「ハレ」ばかりの時代と「ケ」だらけの暮らし

「ハレ」はもともと、折り目、節目を指す概念であったといいます。
また、現代では天気のいいことを「晴れ」といいますが、江戸時代では、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記していたとか。(Wikipediaを参照)

現代では「晴れ」の日が溢れていますが、一方の江戸時代では「晴れ」は然程多くはなかったのですね。

昔は「ハレ」が希少だった―――それは、天気の話以外でも言えます。

晴れの日とは、結婚式や成人式などの節目となる特別な日を指しますが、昔はそのような日こそが「ハレ」であり、それ以外の日は「ケ」であり、昔の人々にとっては「ケ」は紛れもなく「ケ」でしかなかったわけです。

地味な普段着を着て、質素な食事をとり、淡々と、慎ましく生活するのが「ケ」だったのです。



それが今ではどうでしょう?

私たち現代人の日常には非日常が溢れんばかりに織りこまれ、「ケ」というほど慎ましくも平坦でもない日常が普通になってはいないでしょうか?

2007年、「リア充」という言葉がTwitterなどで流行りました。

当時のことを思い返すと(もっとずっと以前からではありますが)、「ハレ」ばかりがもてはやされ「ケ」を邪魔者扱いでもするような、そんな時代の雰囲気があったように思います。

私自身にも身に覚えがあります。

そのような時代に身を投じてきた反動からか、二十代を過ぎようとしていた私は「ケ」を求め始めます。



2017年、「インスタ映え」という言葉が流行語大賞をとりました。

「インスタ映え」する晴れやかな世間の人びとをよそ眼に私は、淡々と「ケ」を生き始めていました。

この頃の私には、「ケ」ばかりの暮らしに巣ごもって生きることが自分にとって安全で最善であるかのように、「ハレ」と距離をとり始めるようになっていました。

と同時に、時には映える世の人々と自分を比べ劣等感を感じたり、世間から爪弾きにされたような疎外感を感じたり、欲求不満に陥るようなことも多少なりともありました。
それでも、「ケ」に巣ごもる暮らしは続きます。



そうこうしているうちに、「インスタ映え」の時代も過ぎ去り―――若者の「映え」の感覚はすでに一新されたのか「映え離れ」が加速、インスタの様子も世間の雰囲気も、なんとなく「ハレ」から遠のいていく一方のように感じます。



2020年にコロナウイルスの感染拡大や、それによって叫ばれた外出自粛が、その傾向を後押ししていました。

私にとってもコロナ禍の影響は強烈で、「ハレ離れ」の傾向を加速させていました。

外出自粛を期に私は本腰を入れ、「ケ」だらけの暮らしへと巣ごもっていくのでした。


「ハレ」に疲れた若者たち

ところで、あの頃あんなにもインスタに心酔していた若者たちが「映え離れ」したその理由とは一体何だったのでしょう。

いつでもどこでも「インスタ映え」に躍起になることに、いくぶんか疲れてしまったのでしょうか。

「エモい」を求める最近の若者たちにはきっと、心の休息が必要なのでしょう。



言ってみれば、「映え」は「ハレ」。
「ハレ」ばかりで「ケ」が不足すれば、気持ちは浮足立ち、拠り所を失うのではないでしょうか。

遊び疲れて、家に帰りたくなるような心境なのかもしれません。

「ケ」は「ホーム」のようなもの。
「ハレ」はパーティー会場だとしたら……。

私たちは、「ハレ」ばかりでは疲れてしまうのです。

20代後半に私に起こった変化も、「ハレ疲れ」だったのかもしれません。


「インスタ映え」は、戦後の高度経済成長期にやってきた大衆消費社会の「最後の灯火」だったのかもしれません。

「映え離れ」が象徴する昨今の若者の趣向は、陽極まれば陰が生じるというように「ハレ」から「ケ」に転じた現象であり、日本人の転換点をも象徴しているのかもしれません。


「ケガレ」の原因は「ハレ」失調!?

「ハレ」ばかりの人々がいる一方で、「ケ」ばかりで「ケ」が枯れた「ケガレ」の状態に落ち込んでしまう人もいます。

かくいう私もその一人でした。

先ほど申し上げた通り、私は外出自粛を期に「ハレ」なしの「ケ」だらけ巣ごもり暮らしに完全移行を遂げます。

すると、私の「気(ケ)」は徐々に弱まっていきました。
いつの間にか、代わり映えのしない日常に鬱憤が溜まっていくようにもなりました。

巣ごもる暮らしというライフスタイルを選択したことは、間違いだったのでしょうか。



いえ、そんなことはありません。
巣ごもる暮らしは人に滋養を与える、幸せなライフスタイルの1つであるはず。

では、何が私を「ケ枯れ」させたのでしょう。



それは、「ハレ」不足です。


例えてみるなら、きれいになりたくてダイエットに励んだものの、行き過ぎて栄養失調になり、肌荒れなどさまざまな支障が表れ、きれいな自分から余計に遠ざかってしまった―――みたいな本末転倒な話。

私の場合は栄養不足ではなく、「ハレ」不足を起こしていたのです。


私が求めていたものは、幸せな暮らしでした。
そのために、自分を疲れさせていた「ハレ」を削るようになったのですが、それが行きすぎて「ケ枯れ」を起こし、幸せどころではなくなってしまったのです。


心が「ハレ」る「ケ(日常)」を!

早い話、バランスを崩してしまったということです。

何のバランスでしょう。
もちろん「ハレとケ」のバランスです。



私たちはこのバランス感覚を養わなければならないのでしょう。

現代を生きる私たちにとっての「ハレ」は、格別の晴れの日だけでありません。

ちょっとオシャレして出かけるデートや、友人と話題のお店で食事をするなど、大そうなイベントでなくとも、私たちの心が上がる、高揚している、だとすればそれは「ハレ」といえるでしょう。

日常の中の非日常、小さな「ハレ」が私たちの暮らしを潤してくれています。

もちろん、それが多過ぎてしまえばそれもアンバランスとなり、私たちを消耗させてしまうのはすでにお話しした通りです。


ステイホームが叫ばれたコロナ禍では、多くの人がこの〝ハレ不足〟に鬱憤を溜めていたことでしょう。

ですが、そんなコロナ禍であっても、「ハレとケ」のバランス感覚の優れた人々は、上手にこの時期を切り抜けることができていたはずです。

ステイホームを利用して、これまでの〝ハレ疲れ〟を解消したり、何かで行き詰まってもなお「ハレ」を忘れてしまおうなどとはしなかったのでしょう。



あるとき、私はこのこと、「ハレとケ」のバランス感覚を欠いている自分に気づきました。

それで、ちょっとしたことですけど、自分に「ハレ」を充填———マニキュアを塗ってみたんです。

すると、心がみるみるうちに潤っていくのが分かりました。

「こんなにも〝ときめく〟ことができるなんて、マニキュアは魔法だ!」と、1人感激していたものです。

思い返せば、マニキュアを最後に塗ったのは2年以上前のこと、メイク?―――もう3年近くしてませんでした。
そこで、久々に化粧もしてみると……やっぱり気分が上がるものですね。


巣ごもっていた私も、密かに「ハレ」を求めていたのです。

自分の心にもっと正直になってみると、「ハレ」は私を疲れさせるどころか、私を生き返らせてくれました。


程よい「ハレ」は「ケ(気)」を巡らせる、より幸福な日常には欠かせないものですね。


あとがき

心がバランスを崩すと、無気力になったり、変化を怖がり動けだせなくなったり、何となく塞ぎ込んでしまうものです。

同じように「ハレとケ」のバランスを崩すと、本来の自分でいられなくなってしまうこともあります。



そんな自分に気づいたら、最近の自分は「ハレとケ」のバランスが取れていたかどうか、思い返してみてください。

「ケ」は安らぎ、「ハレ」は〝ときめき〟を与えてくれます。

自分に足りない方を程よく補ってみましょう。


そして、自分が最適だと感じる「ハレとケ」のバランスを保てるように、日頃から自分の正直な気持ちを汲み取ってあげる、そんな自分に対する配慮を忘れないようにしたいところですね。


もしまだでしたら、こんな私〝いこ〟のこれまでの〝巣ごもる暮らし〟について別の視点からお話ししているプロフィールも読んでいただけたらうれしいです。

また、「ケ枯れ」を解消する簡単な方法が『夫婦円満の秘訣は散歩!?テレワークやセミリタイアでずっと一緒でもずっと仲良し!』で解説しております、散歩です。

散歩されてますか?
もしも日々の生活の中で、ご夫婦の関係性の中で、ストレスが溜まっているとしたら、こちらの記事を読んでみてください。

タイトルとURLをコピーしました