
時間に追われることなく生活できたらどんなに幸せだろう、そう夢見たことがあるだろうか?私はある。もうずっと前のことだ。今はそのような夢を見る必要がなくなった。その理由は、それを現実のものとしたからだ。
とはいえ、何かが足りない。どういうわけか、時間が足りない。時間に追われることはなくとも、時間が足りない。
そんなもどかしい人生からは、依然として脱却できていないまま、スローライフが来る日も来る日も、ぬるま湯に浸かる茹で蛙のごとく、私を蝕んでいるのかもしれない。とにもかくにも、スローライフを生きながらも未だ時間がないと不満を抱く私とは、いったい何なのだろう?と自分自身を訝しく思う毎日を過ごしていたのだが―――。
のんべんだらりとゆっくりも
基本、体力に自信がなく、また、瞬発力もない私が行きついたのが、今のスローライフだ。のんべんだらりとした生活が、怠惰な私にはピッタリなのだ。
もちろん、スローライフ=のんべんだらりとはならない。スローライフと聞いてイメージされるのはもっぱら、丁寧な暮らしだ。時間に追われていないからこそできる、豊かな生活。のんべんだらりという表現は、スローライフそのものを表すには相応しくない。
だが、一部可能性としてはある。スローライフにのんべんだらりは含まれるだろう。とはいえ、あまり良いイメージではないため、その可能性は大方排除される。スローライフに失礼な気がしてしまうのだ。というのは、おかしな話だ。時間に追われていないのなら、のんべんだらりとするのが人間の性というものではないだろうか。そもそも、スローライフのイメージが良過ぎるのだ。
とはいえ、実は私も時間に追われないがために、丁寧な暮らしに多少なりとも加担している。いったいどっちが私の本性なのか。どちらにせよ、スローライフはそうそうゆっくりもしていられない。

丁寧な暮らしと腸内細菌
食べることが大好きで、食べるものにも自分なりのこだわりをもつ、そんな私に料理は欠かせない。外食も好きだが、私の心身が整う食事を提供できる最も優れたシェフは、間違いなく私だ。
出来合いのものはもちろん、加工食品もあまり買わない上にほとんど毎食自炊するのだから、それなりに時間と労力がかかる。正直面倒くさく感じることもある。それでもやめられないのは、食欲のためか、はたまた、腸内細菌への忠誠心、その表れなのだろう。
巷で聞いた話だが、どうやら腸内細菌が食べたいものを私たちは食べたいと欲するようだ。健康を維持したいと切実に願う私は、腸内細菌には頭が上がらない。私は腸内細菌に忠誠を誓う。そのための丁寧な暮らしなのかもしれない。であれば、仕方がない。仰せの通りに、まめに豆を煮たり何なりと。

モーニングルーティンは欠かせない
毎朝の習慣と化したいくつかの行為、いわゆるモーニングルーティンの一部も、丁寧な暮らしと重なる。そう、朝から丁寧な暮らしを送る私のモーニングルーティンは、私の貴重な朝の時間を食い潰すのだ。時間が足りないと感じさせる最も大きな原因が、ここにある、私はそう睨んでいた。
とはいえ、これをやらずにはいられない。なぜならモーニングルーティンは、家で過ごす時間、さらには自分であることの快適さや心地よさといった、クオリティーオブライフにとって欠かせない要素とのトレードオフ関係と化しているからだ。
もちろん、一日くらいさぼっても問題は然程ない。だが、数日に渡ってではどうだろう。モーニングルーティンを三日さぼった自分を想像してみれば分かる。やはり、モーニングルーティンは欠かせないのだ。

ナイトルーティンは意外にも
モーニングルーティンが欠かせないものならば遂行していく他ないが、改善の余地はないかと日々目論んでいた。そしてついに最近、大きな見直しを図ることに成功した。
見直しとは具体的にいうと、朝でなくてもいいことを他の時間帯に振り替えるというもので、その殆どが夜行うこととなった。今までは夜に活動することを億劫がっていたのだが、他に手立てがないように思われたため、泣く泣く腹をくくった。
そんな拒み続けたナイトルーティンだったが、意外にもすんなり習慣化された。

世間では入眠のための習慣がナイトルーティンとなるようだが、私のように入眠に何ら支障のない者にとっては、単に生活を円滑にするための習慣でしかない。それでも、入眠を阻害するどころか向上させているように感じる。やるべきことをやる、そのことが心理的な面でプラスに働き、眠りにつきやすくしてくれるのかもしれない。
ちなみに、この新入りのナイトルーティンとは、お風呂の前に居間に掃除機をかける。お風呂に入った後にキッチンの床を拭く。フローリングシートで二階の廊下から階段、一階の廊下をぐるっと掃除するというもの。
好きなのか嫌いなのか
一日は短い。それでも、掃除をさぼると埃が溜まる。一日ならさほど酷くはないが、二日さぼると明らかに埃が気になる。埃っぽいのが、田舎の古家である我が家の特徴なのだ。その上床面積が広い。ずぼらな私にとっては、掃除機やフローリングシートをかけるだけでも一苦労だ。
とはいえ、私は広い家が好きだ。この広さが我が家の売りなのだ。仕方がないから、私はせっせと掃除する。
私は掃除嫌いだったはずだが、いったい掃除が嫌いなのか好きなのかどっちなのだろう、分からなくなってきた。好きなことのためには、嫌いなことをする必要があることもある、ただそれだけのことなのだろう。

主婦なのか主婦ではないのか
一日はやはり、短い。ナイトルーティンで掃除して、料理して、モーニングルーティンをこなすだけで、なかなかの専業主婦っぷりだ。そうか、私は主婦だったのか。ついつい忘れてしまう。自分はただの優雅なアーリーリタイア勢だと勘違いして、日々を過ごしている節が往々にしてある。私は幸せ者だ。
現実に自分を引き戻して、さぁ、専業主婦として自分の生活を振り返ってみよう。専業主婦の一日は、専業とはいえ、なかなか忙しいのだ。スローライフなんて、主婦には縁遠いものなのだ。そうだ、私の暮らしは、そもそもスローライフではないのだ。そうだ!そうだ!
そう、私のどこかが労働運動さながらに何か訴えたくなるのだが、全くの戯言であることに瞬時に気づく。やはり、私はスローライフを生きている。世間の忙しなさとは一線を画す、のんびりとした暮らしにうつつを抜かしていることは間違いない。
時間は私のものか家族のものか
十分な時間はあるはずだ。それでも、いつの間にか時間は溶けてなくなる。いや、時間はなくならない。いつもここにあるはずだ。それなのになぜ、そう感じるのだろう。何の時間がないのか。―――自分の時間がないのだ。
家族に尽くす主婦は自分の時間がないのだ。いや、だから、私は家族に尽くすような主婦ではない。当の昔にそんな役割は捨て去っている。そんなに昔ではなかったか、、、。
何はともあれ、私は家族のための時間に追われるような日常を生きてはいない。だが、心の中にはまだ、家族に尽くす主婦を演じようとするもう一人の自分がいて、私を時間のないスローライフに押し留めていたのだ。―――自分を優先させてはならない。だから、自分の時間がないのだ。

茹で蛙のごとく
自分を優先させてはならないという信じ込みを無意識下に潜め私が行っていたのは、テトリスのように一日のタスクを組み立てていくことを楽しみながら、自己効力感を少しばかりアップさせ、上っ面だけの満足感を得るというざれごとだった。生活をマネジメントし、生活に潜む見えない敵を攻略しているかのように、永遠と一日を整理し続ける自分から抜け出さぬよう自分を騙してきたのだ。
無駄が嫌いで効率を重んじる私にとっては、絶好のおもちゃだった。ついつい夢中になってしまった。見えない敵は自分の内にいるのだが、そちらに目を向けることがなければ、いつか茹で上がってしまう。何かにかまけさせ目を向けさせないようにするのは、奴らの常套手段だ。
自分ファーストにかえる
茹で蛙と化す寸前のところで目覚めた私は、自分ファーストを掲げた。自分を優先させると、腹を括ったのだ。
自分を優先させた上で優先順位を決め、それを守るというルールにのっとって、一日をプランニングしていく。すると、自分のための時間が確保できるようになった。
もちろん、のんべんだらりと過ごす時間も、丁寧な暮らしとの共生も、モーニングルーティンもナイトルーティンも、私のための時間ではある。だが、より大切なものは何だろう。自分の心の声に耳を傾ければ、それらは今現在の私にとって脇役に他ならないことが分かってくる。「主役は私だ」と、意気揚々と現れた自分の時間を、今は存分に大切にしたい。
やっと、時間のあるスローライフを手に入れることができた。私はついにスローライフの恩恵を、欲求不満などなしに、享受することができるようになった。


