「何してる?」「○活してる」の答えはさておき―モーニングルーティンに悩みつつ

エッセイ-そのヒクラシ

昨今「○活」が流行っている。だけど、私の辞書には、「○活」などない。「最近何してる?」なんて人様に聞かれても、私は「何もしてない」なんて答えてしまうのだろう。いや、本当は色々とやっていることはある。予告なく突如聞かれた問に対し、スッと返答できるシンプル回答をもっていないだけ。そもそも、少しばかり対面コミュニケーション力に欠ける私は、自分に対する質疑応答が苦手だったりする。そのため、こんなちょっとした会話がスムーズにいかなかったりするかもしれない。そういう時に、「〇活」があったら便利なのだろうと思う。

モーニングルーティンの圧と威力

話は変わって、私は日頃、モーニングルーティンに悩まされている。というのも、モーニングルーティンに含まれるやることリストが少しばかり多すぎて、負担に感じている。朝起きてからの数時間は、他の時間帯とは比べ物にならないくらい頭が冴え渡り、創作活動に打ち込める貴重な時間だということは、広く世に知れ渡っている脳科学的解釈。私も例にもれず、午前中が脳のゴールデンタイムにヒットする人間で、ブランチまでの時間が勝負。なのだが、モーニングルーティンに圧迫され、最優先したい課題に十分取り組めていない現状がある。


そんな不満を抱えながらも行うモーニングルーティンは、モーニングルーティンの目的を果たせるのだろうか。モーニングルーティンの目的とは、その日一日を気持ちよく過ごすための下地を整えることにある。モーニングルーティンに悪態をついていたら、気持ちのよい一日どころか、気持ちが重たくなるベース作りにもなりかねないのではないか、などという心配がよぎる。が、しかし、実際にモーニングルーティンを追行してしまいさえすれば、心は清々しく整えられてしまう。嫌でもやれば整う。モーニングルーティンには、それほどの威力がある。私にとってモーニングルーティンは、一日を清く始めるための儀式のようなものと化している。

モーニングルーティンで日々精進

だとしても、モーニングルーティンが私の午前中の貴重な時間を圧迫していることには間違いないことで、もう少し簡略化できないものかと探っている。だが、答えはまだ見いだせていない。それどころか、最近また一つ、やることが増えてしまった。どうしたものかと考えあぐねている。


最近ぐっと寒さがきつくなった。そのため、モーニングルーティンが増えた。朝、障子の裏で結露によってびちょびちょに濡れ滴った掃き出し窓2枚と膝の高さまでの張り出し窓2枚が、お待ちかねだ。拭いてあげなければ、大変なことになる。ここのところ、暇を見て大掃除を徐々に進めている。普段、障子に塞がれ解放されることのない、放置され続けた窓たちのどす黒い鬱憤を見て、ゾッとした。あんな状態になるまで放置したネグレクト住人である私の心にもまた、見て見ぬふりして腐ってしまった記憶の断片などが塵積っているのだろう。こんな、掃除もろくにできない私の、腐った性根を叩き直すべく、大掃除に取り組んでいるのだ。そのペースはかなりのスローモーションではあるが、着実に進んでいる。ということで、やっとの思いで救出した窓を、再び封印するわけにもいかず、せっせと毎朝、結露を拭き切っている。恐らく、私のジメジメ腐った根性も、窓を拭くほどに日々、精進されているに違いない。

モーニングルーティン短縮を図る

だからといって、脳のゴールデンタイムを食い潰すモーニングルーティンであっていいのか。いいわけがない。けれど、モーニングルーティンとなったやることリストは、どれも欠かせないものばかりなのだ。例えば、先ほどの窓拭き以前からの習慣である掃除。一階と二階にある二か所のトイレ掃除に始まり、キッチンの床や廊下や階段等のフローリングシート掛けや居間の掃除機掛けや玄関の掃き掃除等。出かけることが少なく、家の中で過ごすことが大半の日々を過ごしている私にとって、住空間が清浄であるということは、一日を気持ちよく過ごすうえで欠かせない重要事項だ。とはいえ、何か方法はないだろうか。所要時間を減らす方法は。やらないとは言わない。けれど、朝じゃなくてもいいことがあるのではないだろうか。何か見落としがあるような気がしてならない。


一つ思い当たる節がある。キッチンの床掃除。以前から頭の隅にずっと張り付いて離れなかったこと。拭き掃除だ。キッチンの床を拭きたい拭きたいと、ずっと思い焦がれていた。それなのに、最後に拭き掃除したのっていつだったっけ?という状況だ。これも、見て見ぬふりを長いこと続けてきた。散々汚したまま踏みつけにされてきた床の悲しみたるや、想像に余りある。

そうだ、キッチンの床を拭こう!とまた、モーニングルーティンのボリューム増に繋がる発想では無論ない。朝じゃなくてもいい以上に、夜がいいのではないか。キッチンの床が最も汚れるタイミングは料理を最もする時間、夕食前なのだ。であるなら、夕食を終えた後、腹ごなしにキッチンの床を掃除するのが理にかなっている。できることなら、これをナイトルーティンに加えたい。そして、モーニングルーティンからキッチンの床のフローリングシート掛けを削除しよう。そう思うのだが、毎晩、拭き掃除をやる自信がない。夕食にお酒を嗜むのが私の楽しみで、ほろ酔いの私の夜の時間は、ダラダラ過ごすのがお決まりのルーティンと化している。であっても、今夜、床と対峙してみることを、ここに表明しよう。習慣化までは約束できないが。

モーニングルーティンはさておき―これぞ生活

以上が、モーニングルーティンについて日々考えあぐねている私の窮状の一部だ。窮状と言いつつも、そう悪くはない。気づいたことがある。モーニングルーティンにしろナイトルーティンにしろ、掃除にしろ何にしろ、気持ちよく過ごすための行いには、時間と労力が伴う。自分を生かすその準備に、いったいどれほどの時間と労力をかければ気が済むんだ、と自分に呆れていた。だいたい、準備、準備って、いったいいつ本番が来るのだろうか、などと自分で自分を鼻で笑ってもいた。


だが、ハタと気づいた。一日を気持ちよく過ごす準備といいながら、そもそもこのモーニングルーティンを行っているこの瞬間がまず、気持ちいい。だいたい、24時間どのタイミングを切り取っても、私の生きている本番であることには間違いない。毎瞬、毎瞬が、私の生きている本番、大切な「生」そのものじゃないか。そうやって、自らの生きて活動する=「生活」と対峙する私は、そうか、私は何もしていないんじゃない、「生活」していたんだ、と気づかされる。


私は「朝活」も「推し活」も「腸活」も(ともすると、腸活はナチュラルにしているが)していない。ただ、「生活」と呼ばれる「○活」はしている。私は知らず知らずのうちに「生活」していた。


「いつも何してるの?」と今度聞かれたら、「生活してるよ。」と答えてみよう。

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