メンタルがパタッ―自分の世話を怠る私の断髪式

エッセイ-そのヒクラシ

自分の世話をすることが下手だと、心身の健康を維持することは難しい。自分の世話を怠らないことは、思っている以上に難しいことだ。

数週間前の数日間、メンタルが落ちたことをきっかけに体調不良を招き、人知れずほんの少しばかり悲しみに暮れていた。

今回はなかなか全快しなかった。全く大したことのない風邪だったが、付き合いの浅い知人の葬式や、いつもよりも重い生理が矢継ぎ早にやってきて、心と体の立ち直りを阻んだ。

そもそもの始まりはメンタル。心がポキッと、折れてなどいない。ただ、パタッと倒れた音がした。もう無理。私を取り巻く目には見えぬ保護膜のようなあの、何らかの防衛システム、それが一時停止したかのようだった。

それはほんの一瞬のことだった。すぐに自動運転は再開されたのだが、その一瞬の隙に、魔が差した。私は自らの健康を差し出してしまう。風邪をひいた。本当に大したことのない風邪だった。風邪になる手間の、言ってみれば「ジャ」そのもののようだった。

寝込むためには理由が必要だ。布団にくるまって、自分に籠って過ごすための正当な理由は、体調を崩すこと。そんな無意識由来のヨコシマな考えが、いや、邪だなんて失敬な、私は自分を労わりたい、だが下手くそだ、ただそれだけだ。私は心が弱ると、体調を崩して引きこもるのだ。これが、自分を守る術なのだ。まったく、下手くそだ。

十分に労わってあげられただろうか。そうであったと願う。ご自愛は、口で言うほど簡単ではない。これまでもこれからも、長い付き合いとなる課題なのかもしれない。

とにかくご自愛に対しスマートではない。それでも結局は、自分を大切にすることができているとも言える。自分を愛している自信などなくとも、やっぱり根っこの部分では愛しているのだろう。どう転んでもこれまで起き上がってこれたのは、ご自愛の賜物だ。

転んでは自分を労わる繰り返しのスパンは、年を重ねるごとに間隔を広げた。以前ほど、少しのことではくじけなくなったのだろう。だが、気づかぬうちに蓄積された疲労は、いつかどこかで臨界点を超えてくる。

考えてみると、私の臨界点はけっこう低く設定されている。私が病に臥せるレベルはこれまで本当に大したことがなかった。これが高く設定されていると、大病などを発症しかねないのだろう。

我慢強いことは、危険だ。私は幸いにも、我慢できない質だ。さらには、我慢を嫌い、我慢を敵視している節がある。そんな節があるくらいだから恐らく、話が矛盾するが、結局私は我慢と二人三脚で生きているのだろう。我慢に我慢ならないのは、我慢を克服できていない証拠とも言える。悔しいが結局、私もそれなりに自分に我慢を強いて生きており、十全に自分らしくなど生きてはいない。

何にせよ、臨界点を超えるようなことは避けたい。大病はしなくとも、慢性的な不定愁訴に悩まされることも、メンタルが落ちて苦しむことも、もう嫌だ。怠惰な自分を変えよう。自分をもっとちゃんと世話しよう。自分を労わるのだ。

あの日メンタルが倒れてからというもの、鏡をほとんど見ていなかったことに気づいた。前髪は伸び放題、肌は荒れ放題になっている。中途半端に長くなった前髪が瞼に障った。痒みを覚えるたびに目をこするものだから、赤みを帯びるだけに留まらず、皺くちゃになってもいた。そもそも髪が邪魔で目がきちんと開けられない。お蔭で見たくもない、何ともお粗末な自分を見なくて済んだ。

自分の世話、一、鏡に映る自分と向き合うこと。美容を置き去りにしないこと。メンタルが落ちて病んだあとの回復を促すためにも、メンタルを落とさないためにも、これは効果大のはずだ。

お察しの通り、すでにメンタルは十分に回復している。再スタートを切る、その間際にいる。私はこの後意気揚々と、前髪を切るだろう。自分の世話を怠る自分とおさらばするための、断髪式とするのだ。

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