自分が思っているほど自分は自分のことを理解できていない。そのことを認識する機会に思いがけず出くわす、そんなこともある。長年好きだと思っていたことを、実は好きではないと改めざるを得なくなったり。
例えば私はこの十数年、自分のことを旅好きだと考えてきたのだが、最近そうではないことに気づいてしまった。

私に旅の楽しさを教えてくれたのは、旅好きの夫だった。若いころはバックパッカーで、いくつもの国を旅してきたという。
夫と出会う前の私は、旅に出たいと考えたことなどなかったような気がする。いつもやりたいことがたくさんあって、旅する余地などなかった。女友達のやや強引な誘いを受けて、渋々というわけでもないが、友人任せにスーツケースを引きずって行く、一週間ほどの海外旅行までがいいところだった。

夫と一緒になってからは、バックパックを担いで行く、数週間に渡る旅を何度も経験した。私はすぐに、旅の虜となった。旅に対する主体性が芽生え、育まれ、いつの間にか、夫よりも旅に対し意欲的になっていた。旅の計画を持ちかけるのは、もっぱら私となった。
何にせよ、夫婦での行動の初動は常に私にある。私たち夫婦それぞれの性格の違いを考えれば当然のことだ。私は目的志向で、無駄を嫌い、効率を重んじる傾向にある。目的を見つけると、時間はかかるが動き出さずにはいられない。夫はプロセス志向で、寄り道を愛し、非効率を気にしない。いつでも受け入れ態勢は整っている。

そんな真逆にも思える私たち夫婦だが、共に旅を愛する者なのだと、私はこれまで考えていた。だが、最近になってそれが間違いだったということに気がついたのだ。
旅を愛する者は、プロセス志向で、寄り道を愛し、非効率を気にしない。なりゆき任せで、思わぬ出来事によって足止めもされれば、予定にない行き先を与えられたりもする行き当たりばったりなもの、それが旅なのではないか。それを受け入れてこそ、旅好きなのではないか。
私はそんな危ない橋を渡るのは嫌だ。なりゆきに任せる勇気などない。私は目的地を設定し、計画通りに進みたい。そうすることによって、より満足できると信じて止まない。そんな私は、明らか、旅好きの要素を欠いている。私は旅など好きでななかったのだ。夫は同意した。
「私って、旅好きじゃないよね?」
「そうだね。」
少し寂しくなった。きっとこれまで、旅好きではないことを認めてしまうのが寂しくて、気づかないふりをしてきたのだろう。
旅好きが私のアイデンティティの一部となっていた。けれど、私は自らの古い殻を捨て去り、自分の本性を明るみにした。計画通りにしか行動できないなんて、なんてつまらない人間なのだろうと自分を揶揄しながらも、なんだか清々しい気持ちになった。これが私なのだと胸を張って生きれるようになったのだから、申し分ない。
自分に対する勘違いはまだまだいくつもあって、これからも思いがず本当の自分に出くわしては、足止めされたり、新たな行き先を与えられたりするのだろう。人生は旅なのだ。いくらあがいても、計画通りになんて進めない。私もやはり、れっきとした旅人なのだ。私は人生という旅を愛している。



